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ノセールの吸血鬼解説ブロマガ

日本における吸血鬼ヴィジュアルイメージはどのように定着していったのか:当ブロマガ記事を参考にした卒業論文が作られました

2020-11-29 14:07:55
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日本における吸血鬼ヴィジュアルイメージはどのように定着していったのか:当ブログ記事を参考にした卒業論文が作られました - 吸血鬼の歴史に詳しくなるブログ (vampire-load-ruthven.com)


 以前、英語”vampire”の訳語として「吸血鬼」という言葉を作ったのは南方熊楠であったという説が覆ったことを解説しました。これらの記事はこれまでの定説が覆ったことと、その定説の提言者である東雅夫氏が新発見と太鼓判を押してくださったこともあり、大変反響がありました。そしてなんと当記事を参考として、「日本における吸血鬼イメージの定着について」卒業論文を作り上げた方がいらっしゃいましたので、今回はその卒業論文についてご紹介しようと思います。論文の紹介、公開、ご本人様の名前の公開は、ご本人様からご許可を頂いております。

 以下の記事は読まなくても理解はできますが、これらの記事を参考にした論文であるので、できれば先にご覧ください。動画バージョンもあります。

【目 次】
『吸血鬼』という和製漢語を生み出したのは南方熊楠…という説が覆った!
英語ヴァンパイアの最初の翻訳は「吸血鬼」ではなくて『蛭』だった!
『吸血鬼』は和製漢語で中国へ伝来した!
吸血鬼は『吸血魔』とも呼ばれていた!日本の『鬼』とは関係がない?
戦前の日本で吸血鬼といえば『女吸血鬼』が主流だった?
芥川龍之介に英語を教えた先生は、吸血鬼にも詳しかった!?
ヴァンパイアは吸血鬼以外にも『落とし穴』という意味があった!?
 番外編:「怪物」が『フランケンシュタイン』に変わったのは何時?
"vampire"の訳語の変異まとめ【最終記事】
⑧この記事


上記を説明した動画はこちらから



論文は下記リンクよりダウンロードして閲覧してください。

各ファイルはドロップボックス内にある「各ファイルの説明.pdf」をご覧ください。卒業論文本文は、「soturon.pdf」になります。


【きっかけ】

 今回紹介するのは、静岡文化芸術大学文化政策学部 芸術文化学科 門間朱梨(もんまあかり)さんの2019年度の卒業論文、「日本における「吸血鬼」イメージの形成」について。日本に現在よく知られている一般的な吸血鬼のヴィジュアルイメージが、どのように定着したのかをテーマとし、調査をしていたところ当ブロマガに行きつき、参考にしたいとの申し出があった。私が作成した記事を参照したものであるから、当然私としてはその内容が気になるので、完成した論文を見せて頂きたいとの申し出に、門間さんは承諾してくださった。ということで、その内容と私の感想を述べていこうと思う。


【論文の内容】

 詳しい内容については、上記のドロップボックス内にある本文を見て頂きたい。この記事では要点だけ簡単に説明していく。以前の記事で説明したように、吸血鬼と言う存在はそもそも日本には存在しておらず、吸血鬼という単語はヴァンパイアを表す和製漢語だった。東雅夫氏は、1915年に南方熊楠が作ったのが最初ではないかといい(1)、これがこれまでの定説だった。

 だが、熊楠以前にもvampireを吸血鬼と訳す英和事典を烏山奏春氏が発見、当の東雅夫先生からも新発見であるとお墨付きを頂けたのは以前の記事でも紹介したとおり。明治期の事典を見ると、英和辞典では、ヴァンパイアの訳語にとか妖女の意味があった。また小説とかだと、吸血魔と当てるものもあった。芥川龍之介は1914年にゴーティエの小説「クラリモンド」を、ヴァンパイアを夜叉と訳した出版した。以上が以前紹介した内容であるが、これは熊楠以前にも吸血鬼という言葉があったという事実が判明しただけである。当時の一般庶民が、吸血鬼と聞いて果たしてどんなものを想像したのかどうかまでは分からない。下記のような、現在のステレオタイプな吸血鬼ヴィジュアルイメージ、つまり貴族服、黒マント、牙が生えているといった吸血鬼を想像できたかまでは分からない。



今一般に想像されるであろう吸血鬼の外見(ヴィジュアルイメージ)
黒マント、貴族服(夜会服)、蝙蝠、牙など。

(1) 東雅夫「血と薔薇の誘う夜に―吸血鬼ホラー傑作選」:角川ホラー文庫(2005)  pp.333-336


 明治や大正時代に英和事典では吸血鬼という言葉は確認はできたが、黒マント羽織って牙が生えた存在というような説明はない。一応、1893年のフィランジ・ダーサ著「瑞派仏教学」(リンク先実物画像)という翻訳本に、「吸血鬼は歯を首や背骨に突き刺そうとする」という説明がある。この本は、一番有名な吸血鬼であろうブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」(1897年)より前に発表された本である。ドラキュラが発表されるよりも前の日本において、吸血鬼は牙が生えた存在という説明が既になされている。だがこの瑞派仏教学は、スウェーデンの神学者・霊覚者であるエヌマエル・スウェーデンボルグの教えを仏教として解釈を試みたものであり、こんな本が一般的に読まれていたとは到底思えない。註1 この時代の人たちが吸血鬼と聞いて、果たして今現在のような吸血鬼を想像できたのであろうか。

註1
フィランジ・ダーサは仮名で、本名はハーマン・コンスタンティン・ヴェッターリングであるが、ハーマン・カール・ヴェッターリングとしても知られ、こちらの名前で紹介されることが多いようである。

参考1 安藤礼二「近代論―危機の時代のアルシーヴ」(2007) Googleブックスサンプルより
参考2 日本スウェーデンボルグ協会「スウェーデンボルグを読み解く」(2007) Googleブックスサンプルより
参考3 同支社大学一神教学際研究センター 2006年度第一回研究会
参考4 オルコット去りし後――世紀の変わり目における神 智学と“新仏教徒”(PDF直リンク注意)


 一般的な吸血鬼の代名詞ともいえる吸血鬼ドラキュラが翻訳されたのは、戦後の1956年、平井呈一が抄訳で発表した「魔人ドラキュラ」が最初だ。(2) 戦前の日本人が、今のスタンダードな吸血鬼のヴィジュアルを想像できたのかは全くわからない。もしこれを調べるのであれば、小説や映画のみならず、当時の新聞やラジオなんかも調査しなければならないということは、以前の記事でも述べた通りだ。だがこれらを調査するうえで、一つ起点になりそうなものはある。吸血鬼の形はいろいろあるけど、一つの完成形となったのが1897年のブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」だ。日本においてドラキュラ(ステレオタイプな吸血鬼)が入ってきたのは、小説の翻訳(1956年)よりも映画の方が早い。ドラキュラを原作とする映画は、1922年の「吸血鬼ノスフェラトゥ」1931年のベラ・ルゴシ主演の「魔人ドラキュラ」、そして1958年のクリストファー・リー主演の「吸血鬼ドラキュラ」だ。

 1922年の吸血鬼ノスフェラトゥはドラキュラ原作とはいえど、そもそもその見た目はハゲ頭、牙はげっ歯類にようで、今の吸血鬼像とはかけ離れている。日本でいつ放映されたのかは分からない。この映画はブラム・ストーカーの妻、フローレンスに著作権侵害で訴えられて1925年に一度、フィルムの破棄命令が下される。ところが資料という名目で残されたフィルムが残っており、それがアメリカのハリウッドに渡った。そこからフローレンスに上映交渉を行い、1929年に復活して公開したという流れがあるので、日本での公開は不明だが、早くても1929年以降だと思われる。(3)



 1958年のクリストファー・リーが演じる「吸血鬼ドラキュラ」。この吸血鬼のヴィジュアルは今のスタンダードタイプであり、日本でも上映された。吸血鬼ハンターDシリーズの菊地秀行先生が1959年当時、生で見たときの衝撃を語っている。史上初カラー版ドラキュラ映画であり、鮮血が飛び散るシーンは当時としてはかなり残酷な描写だったので、途中で友達と映画館から逃げたそうだ。(4)



 そして1931年のベラ・ルゴシ主演の「魔人ドラキュラ」。これは牙はないけれどもヴィジュアルは今の吸血鬼に近いし、日本でも1931年に上映されている。だがタイトルは「吸血鬼ドラキュラ」ではなく「魔人ドラキュラ」だ。なぜ「魔人」としたのかは不明だ。なぜ「魔人」としたのか、そこを追うことができれば当時の吸血鬼事情がかなり見えてくるだろう。ここまで言えば皆様もおわかりになるだろう。1958年の映画吸血鬼ドラキュラは、日本では既に吸血鬼イメージが浸透してたように思われる。よって、日本において吸血鬼の見た目(ヴィジュアルが)がいつ、どのように広まったかを調査するのであれば、1931年のベラ・ルゴシの「魔人ドラキュラ」を起点に調べていくといいことが伺える。今回門間さんは、とくに大正時代における「吸血鬼」という言葉を調査し、「魔人ドラキュラ」が上映される前の日本人が「吸血鬼」と聞いて、はたしてどんな姿形を想像していたのか、その追求を研究テーマとされた。ということで内容の紹介だが、この記事では概略だけ説明し、詳細は大本の論文の方をぜひご覧頂きたい。



(2) 「幻想と怪奇3 平井呈一と西洋怪談の愉しみ」:新規現社(2020) pp.62-63
(3) 「夜想 特集ヴァンパイア」ステュディオ・パラボリカ(2013) pp.88-89
(4) 菊地秀行「吸血鬼ドラキュラ」:講談社(1999) pp.368-369



【論文の概要】
 以下は門間さんの論文を閲覧したという前提で解説する。あくまで論文の紹介という趣旨で解説するので、以下の説明には私の補足説明・意見も入っていることに留意されたい。

 論文の第一章は現状把握。吸血鬼とはもとは東欧の民間伝承における存在で、西欧にその概念が入ってきたのは、ペーター・プロゴヨヴィッチ事件とアルノルト・パウル事件がきっかけであること、そこから吸血鬼大論争が起きて、吸血鬼という存在が広く認知されることとなった。その後は1819年のジョン・ポリドリの小説「吸血鬼」に始まり、1847年の「吸血鬼ヴァーニー」、1872年の「吸血鬼カーミラ」、そして1897年の「吸血鬼ドラキュラ」といった作品が出てきた、ということが述べられている。

ペーター・プロゴヨヴィッチ事件等の詳細はこちらへ



 第二章「吸血鬼の流入 定説と新説について」。吸血鬼と言う言葉を作ったこれまでの定説は、東雅夫氏が提唱した南方熊楠造語説。ところがそれを覆すものが、学術論文等での掲載はないが見つかったとある。それこそが、当ブロマガで紹介した以前の記事、ニコニコ動画で紹介した内容だ。2016年烏山奏春さんによって、1915年の熊楠以前にも、「吸血鬼」という単語が使われていたことが判明した。熊楠より1年前の1914年に、押川春浪が吸血鬼という言葉をつかっていたこと、芥川龍之介の高校時代の英語の先生である平井金三が、龍之介のクラリモンド出版1日前の1914年(大正3年)10月15日に「三摩地 心身修養」において吸血鬼(但し、読みは「ちすいおに」)を紹介していることが判明した。ほかにも1873年にはすでに辞書でヴァンパイアの訳として、「吸血鬼(小説の)」という解説があったということなどが紹介されている。こうして明治時代にはすでに、吸血鬼という概念が日本に存在していたことを紹介している。以上を踏まえて門間さんは、日本においての吸血鬼イメージはどういったものであったのか、どれほど市民権を獲得していた言葉であったのかを、第三章で述べていく。


 第三章より、門間さんの調査研究結果となる。門間さんは先行研究を行った先行研究を行った烏山奏春氏の手法を踏襲することにした。奏春氏は明治から昭和にかけての英和辞典を調査した。国立国会図書館デジタルコレクションでアーカイブ化されているから、そこから”vampire”の訳語を一つ一つ調査された。その奏春氏の調査結果のまとめは、下記ドロップボックス内のファイルを参照して頂きたい。
 奏春氏が調査したのは、明治、大正期の英和事典にほぼ限っている。今回門間さんは、奏春氏が調査しなかった国語辞典、辞書などを、奏春氏と同じ手法、つまり国立国会図書館デジタルコレクションでアーカイブ化された国語事典・辞書を調査された。


 最古の”vampire”の訳は、1862年英和対訳袖珍辞書(リンク先辞書画像)というもの。英和事典で"vampire"を吸血鬼とあてた最古のものは、1872年(明治6年)「英和字彙 附音插図」だ。だから1862年の明治から大正までの出版物にある「吸血鬼」という言葉について調査を行った。また以前の私の記事でも紹介したように、英和事典における"vampire"の訳は「吸血鬼」以外にも「蝙蝠」「大コウモリ」「蛭」「妖鬼」「悪鬼」がある。だからこれらの単語も吸血鬼イメージを把握するために調査対象とした。

 国立国会図書館デジタルコレクションで、調査すべき単語があった辞書は明治時代で113冊、大正時代で59冊だった。その調査した辞書類をエクセルで一覧としてまとめ、また実物の写しも取得された。全部は到底紹介しきれないので、ドロップボックス内にそのまとめがあるので、詳細はそちらをご覧頂きたい。ここでは要点だけ紹介する。

 まず明治時代、1862年から1912年の国語事典、辞書には、吸血鬼という単語は確認できなかったそうだ。蝙蝠や蛭といったイメージは、現在の日本人がもつものと大差はなかったという。妖鬼、悪鬼については、どちらも妖怪や悪魔といったものを示す単語であるが、悪鬼に関しては悪魔や人間にたたりをもたらすといった意味がある。だから当時の英和辞典でヴァンパイアの訳として悪鬼があったのは、創作上の吸血鬼の意味を説明する単語として相応しかったのだろうと述べている。そして明治時代における吸血鬼のイメージは、現代人のもつ吸血鬼像、いわゆるドラキュラ伯爵のような姿とは異なるということが分かったと述べている。

 次、大正時代、1912年から1926年に出版された辞書について。条件を満たした辞書は76冊で、調査すべき単語があったのは59冊。大正時代の辞書類では、吸血鬼に関する言葉が出てくるようになる。吸血鬼に関する言葉が出てくる辞書は、ともに1924年に出版された「新らしい外来語の字引」註2「現代語解説」という二つの辞書だ。

註2 現在は「新しい」が正しい表記だが、送り仮名のルールがまだ明確に決まってなかった時代なので「新らしい」という表記になっている。当の実物は「新らしい」「新しい」を混在させて使用していることから(リンク先参照)、明確なルールが存在してなかったことが伺える。



新らしい外来語の字引


「現代語解説」

 両方とも「男性から金銭などを奪う女性」つまり「妖婦」という意味で紹介している。現代語解説の方は第一義として「毒蛇」と紹介している。ここで分かることは、民間伝承の吸血鬼、創作上の吸血鬼を解説しているのではないということだ。人の金銭を奪い取る女性という意味であるから、例えば有名な女吸血鬼カーミラ(1872年)のような、創作上の女吸血鬼という意味合いでもない。このように1924年の辞書でようやく吸血鬼と言う言葉がでてくるが、その意味は決して今一般的に想像される吸血鬼の意味ではなかった。ちなみに「吸血鬼」の意味として他人の金銭を奪うものの意は、現在でも残っている。


 だがに、これらの辞典辞書よりも数年前に一般的な「血を吸う存在」という意味での吸血鬼を、大衆向け雑誌で紹介するものがあった。それは映画雑誌だ。大正時代となると海外から多くの映画が輸入されて、その中には吸血鬼を取り扱ったものがあった。その流れで映画雑誌でも紹介されていた。その例として1917年「活動之世界」では、フランス・ゴーモン社で製作された「ヴァンパイアース」という作品を紹介している。

 そして1919年の「活動倶楽部」では写真だけの紹介ではあるが、アメリカ・キーストン社の「バンパイア」という作品を取り上げている。バンパイヤに扮したマック・スエン氏とあり、吸血鬼に扮したマック・スエン氏の写真が掲載されている。これらの映画雑誌では「吸血鬼」という言葉は使わず、そのまま「バンパイア」と表記して紹介していた。



 これら以外にも「吸血鬼」の文字を確認できるものはあったが、なかでも注目すべきものは1924年、小松崎三枝が著した「気界に開かる空中動物園」という図鑑であると門間さんは述べている。


僕はアメリカから来た蝙蝠であります。名をヴァンパイア・バッドと申します。ヴァンパイアといふのは生血を吸ふ幽霊のことで、バッドは蝙蝠であります。
(中略)ヨウロツパのスラヴ人は昔から死んだ者は墓場から出て、生きてゐる人間の血を吸ふものだと思つてゐます。この迷信が十八世紀の中頃ハンガリア人に傳はり、段々ヨウロツパ全體にひろまりアメリカにまで傳つたのであります(後略)

 このように、東欧の民間伝承における吸血鬼を、端的に紹介していた。しかもただそれだけではない。この本の興味深い点は、これが児童向けの本であるということだと門間さんは述べる。明治時代において「吸血鬼」の単語が出てきたのは学術書が中心で、ある程度教養を持った人でしかアクセスできないような情報だった。しかしこの児童向けの本で、吸血鬼という言葉は使ってはいないけれども、ヴァンパイアという怪物が紹介されている。先ほどの映画雑誌も含めて考えると、明治から大正の半世紀ほどの間に、吸血鬼が一般にも広く知られるようになった存在であるという証左であろうと、述べている。


 第四章、妖婦という意味での吸血鬼について。妖婦、つまり男から金銭を奪い取る女性という意味での吸血鬼、その概念が伝わるきっかけとなったのは、1915年セダ・バラ主演の映画「愚者ありき」だ。


 セダ・バラは作中ではヴァンパイアという名前で登場する。別に血を吸ったりはしないが、吸血鬼の如く男から財を吸い取る。その他詳細はこのブログがまとまっているので、そちらをご確認頂きたい。とまれこの映画によりセダ・バラは、最初のヴァンプ女優と呼ばれるようになった。つまりヴァンプ女優という役者の型を作ったということになる。以前の記事で、日本にヴァンプ女優の概念が伝わったのは、1920年代ごろと説明した。1935年の「万国新語大辞典」のヴァンプの解説には、「我が国のヴァンプ女優としては原駒子鈴木澄子が、これに該当する」と書いてあった。


 今回門間さんの研究により、セダ・バラが日本に伝わってきた正確な年代が判明した。1918年の「活動画報」の短いコラムで、セダ・バラの最新作について紹介していた。

パテ社フォックス社でその優(ひと)ありと知られているテダ・バラは、『カーメン』の作において最も毒婦役の成功を見せたが、今また新たにヴァンパイヤー物語の撮影中である。その物語は、テダ・バラ(註3)自身の手になったもので、彼女はいよいよ凄艶なる姿を見せるであろう。

註3 現在はセダ・バラと表記されるが、当時はテダ・バラ表記もある。種村季弘「吸血鬼幻想」でもテダ・バラと表記している。

 「カーメン」「愚者ありき」の数か月後に上映されたもの。だからこの雑誌がいうところヴァンパイヤー物語の撮影中というものは、別のものを指していると見るべきだ。そしてこの解説から2年後の1920年の「活動寫眞雑誌」においても、セダ・バラが写真付きで紹介されている。それによると、彼女の出演した『サーペント(日本未公開、フィルム喪失)』での妖婦ぶりがあまりにすさまじく、市民の善良な生活を破壊するとして公開禁止処分が下ったほどだと紹介されていた。

 日本でこのように紹介されていることを考えると、セダ・バラという女優は当時、世界的にかなりセンセーショナルな存在であったことが伺える。こうして日本においても「ヴァンプ女優」という概念が流入し、日本人女優にも当てはめる動きがあったようだ。その代表例が先ほど紹介した原駒子と鈴木澄子で、当時の事典でも例として取り上げられている。

 だが今回門間さんはこの2人以外に、五月信子という女優がヴァンプ女優と呼ばれていたことを突き止め、論文にて取り上げている。

五月信子(本名:御手洗忍、旧姓:前川しのぶ)

 五月信子は1915年に初舞台を踏み、松竹、帝国キネマ、東邦映画等を経て1928年、マキノプロダクションに入る。そのマキノプロで「毒草」「鬼神」などの作品に出演して、ヴァンプ女優としての地位を確立する。だけどマキノプロに入る前から、彼女はヴァンプ女優として注目されていたという。1924年の「活動倶楽部」の中で「音に名高きバンパイヤ 五月信子の印象」というタイトルで特集が組まれていた。
 さて毒婦役だと評判の五月信子はまだ一度も鬼神のお松を演ったこともありませんし、夜嵐のお絹を演ったこともありません。一体毒婦役とは何を指していうのですか。煙草を吹かして、色目を使うことが毒婦なら、華族の奥様も、待合の女将も、毒婦なのでしょう。(中略)私が唯みとめることは彼女の顔が、セダ・バラと共通する点です。そしてセダ・バラが毒婦役を売物としてサロメを作り、シーザーの御代を製作して失敗したことを覚えております。
 タイトルに「バンパイア」とあり、セダ・バラと比較して紹介されている。だから門間さんは、1920年代において吸血鬼、ヴァンパイアと聞いてイメージするものは、こうした銀幕の妖婦役を得意とする女優の顔という面もあったと述べている。

 以上を経て、門間さんは次のように結論を述べる。本論文では、「魔人ドラキュラ」のイメージで吸血鬼像が定着する以前は、どのような吸血鬼のイメージを日本人が持っていたのか、ということを調査してきた。その結果、大別して4つの型にわけることができた。1つ目は、人間の生血を吸う人間型の怪物の姿。2つ目は、蝙蝠、蛭など、動物や昆虫といった姿。3つ目は、高利貸しといった他人の金銭を奪う人間の比喩。そして4つ目は、妖婦、毒婦といった女性の比喩である。特に後半になるにつれ、現在の日本人が「吸血鬼」に対して持つイメージとはかけ離れてくる。妖婦といった意味については、ほとんど聞かなくなってしまった。なぜ、妖婦といったイメージが消失していったのか、そして、魔人ドラキュラ以降の吸血鬼像で、現代の我々に影響を与えたものはあるのか、これらについては今後の研究の課題としていきたい。以上で、今回の論文は結ばれている。ということで次は、この論文を受けて私の気になったこと、感想を述べていこう。


【論文を読んで気が付いたこと、個人的感想など】

 まず今回この論文を読んで、以前自分で解説していたのにも関わらず初めて気が付いたことがある。それは1897年の「ドラキュラ」より前の1893年「瑞派仏教学」において、吸血鬼は首筋に歯を突きさそうとする存在と解説していたことだ。吸血鬼小説が出てくる前の、東欧における民間伝承の吸血鬼には、牙に関する言及は事実上存在しない。(5) 胸から血を吸ったのだろうとか、どうにかして心臓の血を飲んだに違いないなどと思われていた。そもそも、血を飲んだところを目撃した例は皆無。吸血鬼の基礎となった1819年ジョン・ポリドリ「吸血鬼」に登場する吸血鬼ルスヴン卿は、今の貴族的な吸血鬼の始まりだが牙は持っておらず首筋を食いちぎって血を飲むと言う荒々しい手段で血を飲んでいた。だが1893年の瑞派仏教学では、吸血鬼の代名詞と言える吸血鬼ドラキュラが出てくる前の本なのに、吸血鬼とは牙を持っており、首に牙を刺すという存在であると認識していた。しかも宗教関係の本でそのような解説がなされている。「吸血鬼は牙を持っていた」という認識は、1819年時点ではなかったが、ドラキュラの発表よりも前の1893年には、吸血鬼の牙の概念が西欧諸国に根付いていたと見るべきだろう。年代的に1872年の「吸血鬼カーミラ」の影響があるのではないかと思っている。1845年~1847年に連載されていた「吸血鬼ヴァーニー」から牙の描写が出てきたとされるので(6)(7)、ヴァーニーの影響も無視できない。このように、吸血鬼の牙の認識の変異に気が付くことができた。

(5) マシュー・バンソン「吸血鬼の事典」:松田和也訳/青土社(1994) p.88
(6)Skal, David J. (1996). V is for Vampire. p.99. New York: Plume.
(7)Lisa A. Nevárez (2013). The Vampire Goes to College: Essays on Teaching with the Undead". p. 125. McFarland
※(6)(7)はwikipedia「varney the vampire」からの孫引き(日本語wikipedia



 次に気になったのは、1919年の映画雑誌で紹介されていた、アメリカ・キーストン社のマック・スエン氏と、彼が出演した「バンパイア」という映画について。


 まず何が気になったのかと言うと、このマック・スエン氏はみたところ、文字通り血を吸う存在」という意味でのヴァンパイアのように思われた。これまでの調査だと、1910年代のアメリカでは、ラドヤード・キプリングの詩から始まる、ファム・ファタール系の吸血鬼映画がブームとなっていた。その人気にあやかろうとして作り、結果大ヒットしたのが、1915年セダ・バラ主演の「愚者ありき」だということは、以前の記事でも解説してきたことだ。このように1910年代のアメリカのヴァンパイア映画といえばファム・ファタール系の毒婦ばかりだったのに、文字通りの意味での「吸血鬼映画(だと思われるもの)」が存在していたことにまず驚いた。しかも「吸血鬼ドラキュラ」をベースとしたという意味では最初のドラキュラ映画となる、1922年の「吸血鬼ノスフェラトゥ」が作られる前に、既に日本でも紹介されていた事実に驚いた。今のスタンダードなドラキュラをベースとした吸血鬼なのか、それとも今の吸血鬼とは違う吸血鬼なのか。当時のアメリカ人がどんな吸血鬼観を持っていたのかと、非常に興味を引いた部分だ。このマック・スエン氏のバンパイアが今の吸血鬼と似た特徴を持っているのならば、日本においてスタンダードな吸血鬼を最初に紹介した事例かもしれないからである。

 よって、このあたりの事情を私自身で調べてみた。まずキーストン・スタジオ(日本語)(英語)は、あの喜劇王チャールズ・チャップリンが在籍していたスタジオだ。そしてマック・スエン氏、日本語wikipediaに解説記事があった。


マック・スウェイン(1876~1935)
日本語wikipedia)(英語wikipedia)(仏語wikipedia
他参考サイト

左:チャップリン、右:スウェイン
共演の様子

 マック・スウェインはキーストン・スタジオ所属の俳優、コメディアンで、あのチャップリンとも友人関係にあり度々共演していたという。一度映画界から追い出されたとき、助け舟をだしたのもチャップリンだとか。スウェインはチャップリン作品を含む作品で、大きな目を開き巨大な口ひげを蓄えた「アンブローズ氏」というキャラクターを演じ、初期の喜劇映画を盛り上げたという。スウェインのアンブローズ氏は人気があったようで1914年から1920年の間でシリーズ化されていた。そして今回紹介されていたバンパイヤに扮したスエン氏という雑誌の紹介は、1916年に公開された「Vampire Ambrose:ヴァンパイア・アンブローズ」(リンク先参考)という作品で、アンブローズ氏シリーズのひとつであることが分かった。だが、どんな内容なのかは分からなかった。スウェインの他の作品はパブリック・ドメインになっておりyoutubeなどで無料公開されているのを見かけたのだが、このヴァンパイア・アンブローズはどうも公開されていないようである。もしかしたらフィルムが喪失してしまったのかもしれない(ちなみに何度も紹介したセダ・バラ主演の映画は、大半がフィルム喪失となっており、「愚者ありき」は奇跡的に残っていたうちの一つ)

 ただ断片的な情報から分かることは、シリーズ作品のうち、この作品で吸血鬼になったようなので、アンブローズ氏は元々、人間であったということは間違いない。となれば、アンブローズ氏がなぜ吸血鬼になってしまったのかが気になるところだ。噛まれてしまったのか、それとも別の要因があるのか。一般的な吸血鬼の特徴、例えばにんにくや十字架などが弱点なのかあど、気になる点はたくさんある。この作品を色々掘り下げれば、当時の吸血鬼観を知る上で非常に貴重な資料となることが分かった。だがまずは、この映像が本当に残っているのか探すところから始まるので、日本に居ながらにして調査するのは難しい。門間さんにこの件を伺ったところ、マック・スウェインについては時間がなかったので、そこまで調査の手が及ばなかったということであった。

 もう一つこの作品で気になったこと。それはこのアンブローズ氏はシリーズ作品で他にも作品があるわけだが、その中でなぜ吸血鬼モノの「ヴァンパイア・アンブローズ」が選ばれ、日本で紹介されたのか。日本に吸血鬼という存在が認知されつつあったから、吸血鬼モノのこの作品を選ばれたのか、たまたま気まぐれで選ばれただけなのか、そのあたりが気になったところだ。

 マック・スウェインに関しては以上となる。お次は、以前の記事で日本のヴァンプ女優として原駒子と鈴木澄子を紹介したが、今回新たに五月信子が紹介されていた。実は発端となる調査をした烏山奏春氏は、あれから吸血鬼の流入の歴史に関してさらに独自調査をされ、同人誌を発行されていた。そこで奏春氏も実は五月信子にいきついて、門間さんとは別の文献を参照して紹介していた。ということでそれを紹介しよう。

 羽太鋭治という性科学者註4が、1926年「キネマ・スターの素顔と表情」に次のように書いている。
註4 性に関する専門家なので生化学ではなく性科学となる。

この「ヴァンプ」という言葉は五月信子によつて始めて日本に生れたものだといふ事を、わたしは曾てある人から聞かされた事がある」(二二七頁)

 この一文には非常に驚かされた。これが本当なら、五月信子こそが日本において最初のヴァンプ女優となるからだ。これは伝聞であるからこの一文をどこまで信用するかという問題があるが、羽太は次のようにも述べている。

このごろの若い人の間に「ヴァンプ」といふ言葉が切りに繰返されている。

 このようにあるということは、1920年代の日本人の若者の間で、ヴァンプという言葉が流行語になっていたとみるべきであろう。このように1915年のセダ・バラから始まったヴァンプ女優の概念は1920年代の日本に入り、当時の日本の若者の間で人気となったことは間違いなさそうだと思われる。当時の他の雑誌や、新聞なんかをもっと調査することができれば、日本におけるヴァンプ女優の概念の定着度合いが、より見えてくることだろう。もちろん調査するとなると、かなり地道な調査が必要となってくる。


 五月信子に関しては以上だ。ということで門間さんの論文の最後の結論部分、魔人ドラキュラのイメージで吸血鬼像が定着する以前の、日本人がもつ吸血鬼イメージは大別して4つ。その中でも、今の日本人が吸血鬼に対してもつイメージと最もかけ離れた妖婦という意味。こちらは今ではまず聞かれなくなってしまっている。なぜ消失していったのか、そして魔人ドラキュラ以降の吸血鬼像で、現代のわれわれに影響を与えたものはあるのか、これらについては今後の研究課題としていきたいと門間さんは結んでいる。なぜ"vampire"の訳語として「妖婦」の意味が廃れてしまったのか。そのヒントとなりそうなものを偶然発見した。

 門間さんから論文を頂く1か月前のこと、私はイギリスのロマン派の詩人、ジョン・キーツの吸血鬼の詩「つれなき美女」(註5)のことを何気なく調べているときに、ある論文を発見した。ジャネット・スタイガー著、明治学院大学山口菜穂子翻訳の「つれなき美女、ファムファタール、ヴァンプ、ゴールドディガース 堕落した女の変遷と物語的価値」という論文だ。

論文の場所:明治学院大学 言語文化研究所のサイト 論文PDFの直リンク


註5
余談だが「つれなき美女」は、マシュー・バンソン「吸血鬼の事典」:青土社(1994)で、「華麗極まりない吸血鬼文学の傑作である(p.88)」と紹介されている。だが血を吸う描写が一切ないので、何も知らない状態で読めば到底吸血鬼作品とは思えない。少なくとも個人的には吸血鬼要素が全く見いだせなかった。マシュー・バンソンは吸血鬼要素を説明していないが、同書籍内の別項目で説明している、血ではなく生気を吸い取る「心霊的吸血鬼」として紹介したものと思われる。(翻訳が読めるサイト1)(翻訳が読めるサイト2



 冒頭に次のようにある。映画史家は、初期映画におけるファム・ファタールの一つである「愚者ありき」のヴァンパイアが、映画の一般的なステレオタイプにならなかったことに注目すると。この言い方は、セダ・バラから始まったヴァンプ女優の概念は、日本どころか本場アメリカでも定着せずに廃れてしまったことを意味している。そしてスタイガーは、ニューヨーク州立大学スミコ・ヒガシ名誉教授の1978年の論文、「Virgins, Vamps, and Flappers: The American Silent Film Heroine:処女、ヴァンプ、フラッパー:アメリカのサイレント映画ヒロイン」から次の文を紹介している。(フラッパーについて知りたい方は、リンク先記事を参照のこと

映画産業が徐々に洗練されていくにつれ、ヴァンプは女として描き出されるようになる。これは彼女が人間化されていく過程であり、その過程でヴァンパイアは、もはや死を招く危険な女ではなくなってしまった。

 ヒガシ名誉教授は、ヴァンプの人間化を強調した。だからスタイガーはヴァンパイアに何が起きているのかを論じてみたくなったというのが、スタイガーの論文の主旨である。
 元々ヴァンプ女優というのは、ファム・ファタールでもある。ファム・ファタールは男を堕落させたり破滅させたりする女のこと。日本の有名な文学作品なら、谷崎潤一郎の「痴人の愛」に登場するナオミが、典型的なファム・ファタールだ。映画「愚者ありき」のセダ・バラ演じるヴァンパイアは、男を自殺させたり廃人同然に追い込んだりと、次々と男を破滅へと追いやっている。だがヒガシ名誉教授に言わせれば、映画産業が洗練されるにつれて、ヴァンプは女の面ばかりが強調されるようになった。つまりヴァンプが持つ「死」という危険要素が薄まり、人間に近くなったというのが、ヒガシ名誉教授の意見である。現在の日本において「吸血鬼」からヴァンプ・妖婦の意味はほぼ失われた(一般的でなくなった)わけだが、このヒガシ名誉教授を意見を鵜呑みにするのであれば、アメリカにおいてもヴァンプの概念が変容し、定着しなかったようである。つまり、アメリカでもヴァンプという存在が定着しなかったという現象があるということは、日本におけるヴァンプ概念の喪失と、なにか関連性があるかもしれないということだ。もちろん関係がないのかもしれない。だがそれを明らかにするためにも、アメリカの、いや世界中のヴァンプ事情について調査し、相関性の有無をはっきりさせる必要が出てきた。何故世界中かというと、ヴァンプの概念はアメリカや日本以外、つまり世界中に広まっていたと思われるからだ。実はコトバンクのファム・ファタルデンマーク映画記事にこんなものがあった。

【デンマーク映画より】
…世界映画史上,デンマークはまず,接吻とバンプvampを生んだ国として知られ,次いでカール・ドライヤーという巨匠の名に値する大監督を生んだ国として評価される。 1906年に世界で最初のメジャー(大手)の映画会社の一つ,ノルディスク社がオーレ・オルセンによって創立され,10年代には早くも最初の黄金時代を迎える。アウグスト・ブロムAugust Blomウアバン・ガーズUrban Gadといった監督による姦通と犯罪の社交界メロドラマが〈妖婦(バンプ)と接吻という二つの欠くべからざる要素〉を映画にもたらし,世界中で大成功を収めた(ジョルジュ・サドール《世界映画史》によれば〈唇と唇が長々と官能的に触れ合い,恍惚となった女性は顔を後ろにのけぞらせた〉ので世界中でスキャンダルになるというほどの反響だったという)。

 このように、1910年代のデンマークの映画界といえばヴァンプというほど、有名だったことが分かった。1915年の「愚者ありき」からヴァンプは始まったとされる。今の解説はヴァンプの概念が世界中に広まった証拠とみるべきだろう。1915年の「愚者ありき」はアメリカや日本のみならず、世界中の映画界にセンセーショナルをもたらしたものと思われる。というか当然だろう。大正時代の日本に伝わったぐらいなのだから。1910年から20年代というのは、世界的な傾向としてヴァンプ女優が流行した時代であり、日本もその流行に乗り遅れまいとしたと考えるべきだ。こうした事実を見ると、門間さんが述べた「なぜ妖婦といったイメージが消失していったのか(日本におけるヴァンプ女優の概念の喪失)」を調査するのであれば、海外の動向も同時に見ていき比較する必要があることが分かった。となると、この調査はかなり難しいものとなる。とくに海外の事情を調べるのは、かなり難しい。それでも日本のヴァンプ事情の変異を調べるだけでも価値はある。


 この調査をするにあたってまずすべきことは、1915年「愚者ありき」以降で、アメリカどころか世界中のヴァンプ映画が流行していったのか、そしてそれが日本でも流入してきたのかについて調査することだ。その中で、フランスから日本に流入してきたヴァンプ映画の一つを、探す出すことができた。それは1915年から1916年にかけてフランスで公開された「レ・ヴァンピール 吸血ギャング団」というサイレント連続活劇だ。フランス語の原題は”Les Vampires”と、そのまま吸血鬼という意味になる。「レ・ヴァンピール(吸血鬼)」と呼ばれるギャング団を追跡する新聞記者の活躍を描いた作品で全10話、トータルで7時間ほどになる。この作品に登場するイルマ・ヴェップ:Irma Vepという女盗賊は、典型的なファム・ファタール、ヴァンプとされ、「愚者ありき」のセダ・バラとしばしば比較される存在だという。余談であるが、イルマ・ヴェップ:Irma Vepは、ヴァンパイア:vampireのアナグラムである。現在創作の吸血鬼には、吸血鬼が偽名を名乗るとき、アナグラムでなければならないという設定があったりするが、それを最初に始めたのは、1874年の小説「吸血鬼カーミラ」からである。ドラキュラを逆さまにしてアルカード、アーカードと読ませたのは、1943年公開のアメリカ、ユニバーサル社の映画「夜の悪魔」からだとされている。(8)  吸血鬼の名前としてアナグラムを採用した例が、「夜の悪魔」以前にもあったことに驚いた。

(8) 「吸血鬼の事典」 p.23

映画のポスター


ミュジドラ(本名:ジャンヌ・ロケ)
(1889~1957)
日本語wikipedia)(英語wikipedia

 イルマ・ヴェップを演じたのは、フランスの女優ミュジドラだ。セダ・バラと同じく、本名ではなくて芸名でまず呼ばれる。父は作曲家、母はフェミニズム雑誌を立ち上げた文芸評論家。16歳の時、ゴーティエの「フォルテュニオ」で初舞台を踏み、この時演じた役名「ミュジドラ」をそのまま芸名とする。喜劇やパントマイムもやっていたらしい。ミュジドラが有名になるのは、それこそ今回の「レ・ヴァンピール 吸血ギャング団」であり、第一次世界大戦中にもかかわらず映画は大ヒット、一躍フランス映画界のスターとなった。当時の批評家からは技術が劣っていると散々な評価だったが、民衆からの受けはよかった。近年は評価が高まり、「死ぬまでに観たい映画1001本」にも選出されている。そんなミュジドラは、晩年は第一線を退くものの映画の傍にいたいがために、映画の切符売りをしていたほどだったという。


 上記はそんなミュジドラが演じたヴァンプ、イルマ・ヴェップ。素顔から比べるとまさに悪女といった様相である。

 この「レ・ヴァンピール」は文句なしの「ヴァンプ」であり、「愚者ありき」と比較されるのも、公開年月日も近いのが理由だろう。それでなんとこの作品、実は日本では大正6年となる1917年「ドラルー」という題名で、全4篇14巻として公開されていたという。ドラルーは作中の青年探偵の名前だ。その為、この作品を解説したwikipedia記事解説サイト(唐草工房)がある(リンク先参照)。それどころか日本語版DVDも発売されており、かなりお高いがamazon等の通販サイトで購入可能である。


 さてここで注目すべき点は、この作品が日本では1917年に上映されていたという事実である。これは日本においてはセダ・バラの流入よりも早いかもしれないからだ。1915年に「愚者ありき」がアメリカで公開されたが、日本ではいつ放映されたのか(そもそも公開されたのかでさえ)不明だ。今回の門間さんの研究で判明したことは、日本でセダ・バラが紹介された最も古い年代は現状、1918年の映画雑誌「活動画報」になる。だがそれより1年前に、ヴァンプ女優の映画が日本で公開されていた。しかもイルマ・ヴェップはセダ・バラとしばしば比較されるヴァンプである。日本の公開に先んじて、映画雑誌でイルマ・ヴェップが紹介されていた可能性が大いにある。

 以上から分かるように、当時の日本のヴァンプの流入と衰退事情を調べるのであれば、各国のヴァンプ映画がどれぐらい日本に流入していたのか、そこから調べないといけないことになる。そして原駒子、鈴木澄子、五月信子といったヴァンプ女優とされた人たちの活躍、当時の雑誌や新聞などを細かく調査を行っていけば、日本においてvampireの意味からなぜ妖婦のイメージが消失していったのかが、ようやく見えてくるだろう。


 門間さんの論文を受けた感想、疑問点は以上であるが、つい最近この件に関して参考になりそうなものを発見した。今年2020年8月24日に新紀元社から発売された「幻想と怪奇3 平井呈一と西洋怪談の愉しみ」の中にある、同支社大学・下楠昌哉教授の「これで怖くなかったら、木戸銭はお返しする―平井呈一訳『吸血鬼ドラキュラ』考」というコラムである。ここでは平井呈一による「吸血鬼ドラキュラ」の翻訳事情を解説している。ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」を最初に翻訳したのは平井だ。原著のタイトルはただ「Dracula」なので直訳すれば「ドラキュラ」となるが、今現在発売されている平井による完訳は「吸血鬼ドラキュラ」と銘打たれている。

 最初の翻訳は抄訳で1956年、世界大ロマン全集の第三巻として出版されタイトルは「魔人ドラキュラ」として発売された。そう、日本でも1931年に上映開始されたベラ・ルゴシ演じる映画「魔人ドラキュラ」と同じタイトルを付けているのである。


 ここで下楠教授は魔人ドラキュラに関して次のように註釈をつけている。
紀田順一郎氏から、当時「吸血鬼」という言葉には人民からの搾取というマルクス主義的なイメージが強くあり、それがタイトルに「吸血鬼」が選ばれなかった理由ではないかと示唆をいただいた。

「幻想と怪奇3」 p.68

 紀田順一郎氏は平井呈一のお弟子さんになる。平井が初めてドラキュラを翻訳したわけだが、タイトルを付けるにあたって、なぜ「吸血鬼ドラキュラ」とせず「魔人ドラキュラ」としたのかについて、下楠教授は以下のように続けている。

ここで、最初の訳のタイトルが『魔人ドラキュラ』であることに注目してみよう。このタイトルの決定に平井の意思がどれほど含まれているかは定かではないが、映画のタイトルの影響は間違いなくあるだろうただし平井は、映像化されたドラキュラを、少なくとも『魔人ドラキュラ』が刊行されるまでは見ていない。それは、1958年に『文芸春秋 漫画読本』に寄稿した「お化けの三人男」での、新たに公開されるハマーフィルムのカラー版ドラキュラ映画を楽しみにしている趣旨のコメントから明らかだ。

「幻想と怪奇3」 pp.63-64

 まず紀田氏の助言だが、ここでいう「魔人ドラキュラ」は、1956年の平井訳「魔人ドラキュラ」ではなく、1931年に公開されたベラ・ルゴシ演じる映画「魔人ドラキュラ」のことを指しているだろう。そうであれば紀田氏の意見によれば、戦前の日本においては「吸血鬼」と聞けば「血を吸う化け物」をイメージするのではなく、「他人の金銭を奪う者」のイメージが強かったことになる。そして平井はベラ・ルゴシ演じる映画「魔人ドラキュラ」は見てなかっただろうとされている。これを裏付ける証言が、平井自身が翻訳した1956年の「魔人ドラキュラ」あとがきにて確認できる。

作者ブラム・ストーカーについては、不勉強の私は何も知るところがない。企画部から原書を渡され、二日がかりで息をつくまでもなく読み通してみて、こんな作品があったのかと、じつに驚いた。なるほど、この作品なら、過半世紀のあいだ、欧米の怪奇小説の王座を占め、演劇に映画に、百万の人々を恐怖の渦にまきこみ、心胆を寒からしめたはずだと、いまさながら、うなずけた。
(中略)
由来、ヨーロッパの吸血鬼という怪物は、われわれ東洋人には、比較的なじみがうすい、このへんにも、妖怪および怪異文学における、東西を問わず、古今往来、人類共通のものだろう。

ブラム・ストーカー/平井呈一訳「魔人ドラキュラ 世界大ロマン全集3巻」:東京創元社(1956年) pp.347-348

 平井がドラキュラを翻訳しようとしたきっかけは、編集部からの企画だったこと、そしてその時までブラム・ストーカーや彼の作品「ドラキュラ」は、ほぼ何も知らなかったことが伺える。そのあとに「この作品は、演劇や映画で人々を恐怖の渦に巻き込んだはずだと、いまさながら頷けた」という言い方をしている。この言い方だと、映画「魔人ドラキュラ」見ていなかったのは確かなようだ。そして「ドラキュラ」の名前ぐらいは、どこかで聞いたことぐらいはあったのではと思われる。平井は「われわれ東洋人には、吸血鬼という存在は馴染みがうすい」と言ってる。平井の感覚ではこの当時、まだ「吸血鬼」は一般的でなかったイメージをもっていたようだ。

 平井が映画「魔人ドラキュラ」を見ていなかったのは、何もおかしい話ではない。ソースは忘れてしまったが、当時「魔人ドラキュラ」海外では話題となっていたが、日本では知る人ぞ知る映画であまり話題になってなかったと、確かにどこかで見たことがある。それとは別に烏山奏春氏は、1975年の児玉和夫の「怪奇映画紳士録」のなかで、次のように述べているのを発見している。

欧米諸国で、大歓迎をうけた「魔人ドラキュラ」も、「フランケンシュタイン」も我が国では、それは、ごくおだやかなものであった

 これは軍国日本、非常時日本などといっていた当時の風潮と相いれなかったと児玉は見ている。このようにあるということは、やはり1931年の映画「魔人ドラキュラ」は、日本では知る人ぞ知る映画で一般的でなかったと見るべきだろう。この翌年にドライヤー監督による映画「吸血鬼」も日本で上映されたが、1932年(昭和7年)の公開時点では知る者ぞ知るといった程度だったらしい。海外の吸血鬼映画は1930年代に上映されていたそうだけど、その影響は大きいものではなさそう、奏春氏はご自身の同人誌でそのように述べられている。

 以上を踏まえると、先ほどの紀田氏の一文は、非常に重要になる。冒頭で述べたように、日本における吸血鬼ヴィジュアルイメージの変容においては、1930年代というのはかなり鍵となる年代だ。以前紹介した記事や今回の門間さんの研究を踏まえると、1930年代ともなれば「吸血鬼」と聞けば「妖婦:ヴァンプ」のイメージが強かったと思われる。少なくとも私はそのように考えている。だが紀田氏は「他人の金銭を奪う者」のイメージが強かったと述べ、「妖婦」に関しては言及はしていない。紀田氏はこのあたりの詳しい事情を説明していないが、少なくとも何らかの確信を持ったうえでこう述べられたことは、確かだろう。どういったお考えでそうおっしゃったのか、例えば今回のヴァンプの概念も踏まえたうえでの意見なのか、それとも知らずに述べたのか、もし可能であればこのあたりの事情を、ぜひ詳しくお伺いしたいところである。


【まとめ】
 最後に以上を踏まえて、日本における吸血鬼の流入の歴史をまとめてみよう。

1872年
”vampire”の訳に「吸血鬼」と当てた最初の例 「英和字彙 附音插図」
レ・ファニュ「吸血鬼カーミラ」を出版。

1893年
「瑞派仏教学」という仏教系の本にて、「吸血鬼は首に歯を突き刺そうとする存在」という解説がある。

1897年
ブラム・ストーカー、吸血鬼の代名詞となる「吸血鬼ドラキュラ」を出版。
同年、ラドヤード・キプリングも「吸血鬼」という詩を残す。キプリングの吸血鬼はファム・ファタールであり、一般的な吸血鬼ではない。これがアメリカにもわたり、以後これを基にした劇や映画が多数作られる。

1914年
芥川龍之介がゴーティエの「クラリモンド」にて、"vampire"をなぜか夜叉と訳して出版。その1日前、高校時代の龍之介に英語の先生だった平井金三は、"vampire"を吸血鬼と訳して出版していた。

1915年
南方熊楠が「祖言について」"vampire"「吸血鬼」と訳して紹介する。これまでは芥川訳「クラリモンド」との関係から、「吸血鬼」という言葉を作ったのは南方熊楠であると思われていた。

同年、アメリカにおいてキプリングの詩「吸血鬼」から始まる映画、セダ・バラ主演「愚者ありき」が上映された。セダ・バラは作中では「ヴァンパイア」と名乗り、余りの妖婦ぶりからセダ・バラは最初のヴァンプ女優と呼ばれるようになる。以後少なくともフランス、デンマーク、日本においてヴァンプ女優の概念が広まることになる。

1915~1916年
フランスにおいてヴァンプ映画「レ・ヴァンピール 吸血ギャング団」が上映、ヴァンプを演じたミュジドラは以降、セダ・バラと何かと比較されるようになる。

1917年
「吸血ギャング団」が日本でも上映された。また「活動之世界」という映画雑誌において、同じくフランスの「ヴァンパイア―ス」という映画が紹介されていた。

1918年
「活動画報」において、セダ・バラが日本に紹介される。

1919年
キーストン・スタジオの喜劇「アンブローズ氏シリーズ」の一つ、「ヴァンパイア・アンブローズ」が日本の映画雑誌において、バンパイアに扮するマック・スエン氏と書かれて紹介される。

1924年
「活動倶楽部」において、五月信子がヴァンプ女優として紹介される。

「新らしい外来語の字引」「現代語解説」において、ヴァンパイアの解説があり、吸血鬼と言う意味も紹介しているが、同時に「妖婦」の意味も紹介している。国語辞典においては、恐らく最初に妖婦を紹介した例だと思われる

「気界に開かる空中動物園」において、東欧の民間伝承における吸血鬼が、端的に紹介していた。この本は児童向けの本である。これまで「吸血鬼」に関する存在を解説したものは学術書が中心で、ある程度教養がある人でないとアクセスできないものだった。それが大衆向け、しかも児童向けの本で吸血鬼を紹介した事例が、ここで初めて確認できた。

1925年
『英和辞典 : 発音引』にて”vampire”の訳語として「吸血鬼」以外に、「妖婦、男を弄んで金を巻き上げる女」の意も紹介する。妖婦の意味を紹介した、恐らく最初の英和事典

1926年
羽太鋭治が「日本で最初のヴァンプ女優は五月信子だと言われているようだ、当時の若者の間でヴァンプという言葉が繰り返しされている」と述べる。

1930年
『英語から生れた現代語の辭典』において、「ヴァンパイア」の見出し語として「毒婦の意にも用ふ、あの女優はヴァンパイア役が十八番だ」とある。そして『モダン辞典』には「吸血魔の意味から妖婦、妖婦役」「ヴァンプと云ふ」とある。このあたりから知識人の間では、「ヴァンパイアとは女」というイメージが先行していた可能性が考えられる。

1930年前後の時期において、吸血鬼という言葉は当時の尖端知識人、今日の言葉でいうならサブカルチャーの領域で、一種の流行語と化した観がある(9)と東雅夫は述べる。1930年代から日本において吸血鬼をモチーフとした小説が、散見されるようになる。

(9) 東雅夫編「血と薔薇の誘う夜に 吸血鬼ホラー傑作選」:角川ホラー文庫(2005) p.337

1931年
江戸川乱歩が小説「吸血鬼」を発表、そしてベラ・ルゴシ主演「魔人ドラキュラ」が、日本でも上映される。

1932年
佐藤春夫が最初の吸血鬼小説である、ジョン・ポリドリの「吸血鬼」を翻訳する。下訳は弟子であった平井呈一が行ったと、本文の前の序文にて佐藤自身が述べている(10)。そして翻訳のほとんどは、平井が訳したのではないかとされる(11)

(10) 「ゴシック名訳集成 吸血妖鬼譚―伝奇ノ匣〈9〉」:学研M文庫(2008)  p.128
※ちなみに佐藤は平井呈一の名前を「平井種一君」と書き、名前を間違えて紹介してしまっている。

(11) 「幻想と怪奇3 平井呈一と西洋怪談の愉しみ」 p.66

1935年
「万国新語大辞典」において、日本のヴァンプ女優の例として、原駒子と鈴木澄子が例として取り上げられる。

1936年頃
日本で赤マントの都市伝説が流行したが、この正体は吸血鬼だとする説がある。

1939年
横溝正史が「吸血鬼ドラキュラ」から翻案した「髑髏検校」を発表する。この髑髏検校で、30年代から始まった日本の吸血鬼ブームは、ふっつりと終焉を迎えたと東雅夫氏は述べる。(11)

(11) 「血と薔薇の誘う夜に」 p.337

1956年
平井呈一、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ」を、わが国において最初に翻訳する。抄訳版でありタイトルは「魔人ドラキュラ」とした。原著タイトルは「ドラキュラ」であるが、前に「魔人」とつけた。これは映画「魔人ドラキュラ」の影響が少なからずあると思われる。
そして平井は「魔人ドラキュラ」のあとがきにて「由来、ヨーロッパの吸血鬼という怪物は、われわれ東洋人には、比較的なじみがうすい」と述べる。平井の感覚では、吸血鬼はまだ日本では一般的ではないという印象をもっていたようだ。

1958年
クリストファー・リー主演、史上初のカラー版ドラキュラ映画となる「吸血鬼ドラキュラ」が日本でも上映、日本でもヒットした。吸血鬼ハンターDシリーズの菊地秀行氏が、当時友達と見に行くも、余りの恐ろしさに途中で映画館から逃げかえった。


 こうしてみると、1915年から1930年代までは、吸血鬼は妖婦のイメージが強く、1930年代以降に、人から血を吸う一般的な意味での吸血鬼が流行りだしたのではないかと個人的には思う。そして1920年代から、一般大衆にも吸血鬼という存在が認知されだしたように思われる。ただ上記でも紹介したように、平井呈一の弟子であった紀田氏の「1930年当時、吸血鬼と聞けば、金銭を奪うもののイメージが強かった」という証言も無視はできない。なぜ「吸血鬼」の意から「妖婦」のイメージがほぼ失われてしまったのか、そして当時の日本の吸血鬼観というものは一体どんなものであったのか、これらを調べるには何度も述べたが、他にも新聞やいろんな雑誌など、幅広い媒体をもっともっと調査する必要があるだろう。となればその作業はかなり大変なものとなり、以降の調査はかなり難航が予想される。私は吸血鬼の啓蒙活動を優先したいので、これ以上の調査はする気にはなれない。もし気になる方がいらっしゃれば、ぜひ引き継いで研究して頂きたい。



 長い記事をここまでお読みくださりありがとうございました。元々発端となる記事は、烏山奏春氏が調査しており、私はただ、まとめ上で公開しただけです。公開したのも、こんな面白い事実を自分一人で抱えていても仕方がない、ぜひ共有したいという思いからです。まさかそこから卒業論文を作って下さる方がいらっしゃるとは思いもしませんでした。しかも今回の門間さんのこの論文は優秀作に選ばれて、大学内でプレゼンを行ったということです。そんな優秀な論文の一助になれたことは、非常に嬉しく感謝の限りです。

 今回ご紹介した門間朱梨さんの論文でを紹介理由ですが、修士論文ならCiNiiとかの学術機関リポジトリに登録されるが、卒論だとそれがないとのことでしたのでご紹介するに至りました。もっと早くにご紹介したかったのですが、色々忙しくて今に至っています。
上記の内容はニコニコ動画にて先んじて公開したので、よろしければ動画版の方もご覧ください。

 門間さんは、私や烏山奏春氏の先行調査をもとにされましたが、逆にその成果をこの場で公開することを快く承諾して下さりました。また奏春氏も快く、同人誌の内容を見せてくださりました。お二方にこの場をかりまして、厚くお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。



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