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"vampire"の訳語の変異まとめ【ヴァンパイアの訳語の歴史⑦】

2018-10-21 22:41:44
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"vampire"の訳語の変異まとめ【ヴァンパイアの訳語の歴史⑦】 - 吸血鬼の歴史に詳しくなるブログ (vampire-load-ruthven.com)

【目 次】
『吸血鬼』という和製漢語を生み出したのは南方熊楠…という説が覆った!
英語ヴァンパイアの最初の翻訳は「吸血鬼」ではなくて『蛭』だった!
『吸血鬼』は和製漢語で中国へ伝来した!
吸血鬼は『吸血魔』とも呼ばれていた!日本の『鬼』とは関係がない?
戦前の日本で吸血鬼といえば『女吸血鬼』が主流だった?
芥川龍之介に英語を教えた先生は、吸血鬼にも詳しかった!?
ヴァンパイアは吸血鬼以外にも『落とし穴』という意味があった!?
 番外編:「怪物」が『フランケンシュタイン』に変わったのは何時?
⑦この記事(最終)
日本における吸血鬼ヴィジュアルイメージはどのように定着していったのか:当ブロマガ記事を参考にした卒業論文が作られました

 前回の記事からの続きです。前回の記事を見たという前提で話が進みます。今回も烏山奏春氏ドロップボックスで公開した「vampire訳一覧.pdf」から解説していきますので、併せて奏春氏のPDFの方もご覧ください。またこの記事は、動画「ゆっくりと学ぶ吸血鬼第13話」で先行して紹介した内容となります。動画では一部誤った解説をしているので、それらの訂正もしたものとなります。

奏春氏のドロップボックスの現在の公開先はこちら(2019年4月18日)

【前 提】

Vampaire(ヴァンパイア)=英語で吸血鬼の意味

ドラキュラ=ブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」に登場する吸血鬼。     つまりドラキュラ伯爵という個人を表し、決して吸血鬼全体を示す一般名詞でない。ここでは混同を避けるために厳密に使い分ける

 "vampire"の訳語の歴史解説は、今回で最後となる。"vampire"の意味として「吸血鬼」以外の訳語があることは、これまでの解説でおわかりになって頂けたことだろう。今までは各項目ごとに解説してきた。今回は総括として変異の移り変わりを年表にした。奏春氏が既に英和辞典の訳語の年表を作られて公開されているが、今回は国内外の吸血創作の動きも加味し、重要と思われる辞典だけを抜き出した年表を作成した。海外と日本の両方の動きを見れば、”vampire”の移入の歴史がより理解が深まるはずだ。今回は年表を見つつ補足していく。まずは下記年表の画像をご覧頂きたい。



 年代順に解説していこう。参考文献は以前の記事で紹介したので、この記事では省略する。

 "vampire"という存在が広まるきっかけとなるのが、1731年に起きたアルノルト・パウル事件。これは吸血鬼の存在が近代国家の公式記録として初めて認められた事件。この事件により、それまで西欧ではあまり知られてなかった「ヴァンパイア」という怪物が、広く知れ渡ることになる。そして科学者、聖職者、啓蒙思想家、女帝マリア・テレジアの従者、ローマ教皇をも巻き込んだ、吸血鬼の存在について論じる「吸血鬼大論争」が勃発する。この論争は1700年代後半まで続いたようだ。

 オックスフォード英語辞典によれば、”vampire”という英単語が出来たのは1734年だというが、これは根拠が不明なのは以前の記事でも解説したとおり。


  1732年より吸血鬼大論争が欧州で勃発するが、そんな時代背景の中、ドイツのハインリヒ・オーガスト・オッセンフィルダーにより1748年に作られた詩「吸血鬼:Der vampire」が発表される。これは英語wikipediaの「vampire」の記事や、吸血鬼を紹介する「vampires.com」※1などの海外サイトでは、「最初の吸血鬼文学」として認識されている。もちろん厳密には「最初の吸血鬼文学」というものは定義できないが、ここでは「近代創作」というくくりで見ているのだろう。このオッセンフィルダーの詩だが、先ほどのvampires.comで全文が読めるほか、種村季弘の「吸血鬼幻想」に日本語訳が収録されている。拙作動画「ゆっくと学ぶ吸血鬼第9話」でも紹介しているので、よろしければご覧頂きたい。

※1 該当リンクは大丈夫だが、他の記事はちょっとグロいサムネイルが表示されることもあるので閲覧注意。
この記事を作ってる2018/10/18現在、映画用?の作り物だがそこそこリアルな腐乱死体の女性の画像がトップページに出てくる。他にもちょいグロレベルの化け物のサムネが出てくる場合がある。


 19世紀に移ろう。1814年、日本で最初の英和辞典「諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)」が刊行される。その日本で最初の英和辞典では、”vampire”の見出し語は見当たらない。


 その2年後の1816年、スイスのディオダディ荘において歴史的一夜「ディオダディ荘の怪奇談義」が行われる。イギリスの詩人バイロン卿の提案により、参加者全員で怪奇譚を書こうと提案する。まず作り上げたのは1818年、メアリ・シェリーが世界的名作、小説「フランケンシュタイン」を刊行する。今年2018年はフランケンシュタイン生誕200周年にあたり、日本でも200周年の特集が組まれるほどである。


 その1年後の1819年、バイロン卿の侍医であったジョン・ポリドリが小説「吸血鬼」を刊行する。作中のルスヴン卿は今の吸血鬼のプロトタイプとなったため、現在はこのポリドリの吸血鬼を「最初の吸血鬼小説」とするのが定説になっている。


 1820年、ポリドリの「吸血鬼」からシャルル・ノディエが劇を翻案し、そのノディエの劇からイギリスのジェイムス・ロビンソン・プランシェが『島の花嫁』という劇を翻案する。この『島の花嫁』では、底板が開いて役者が落ちて消えるという所謂「奈落落ち」の仕掛けがあった。これは当時としては画期的で舞台装置の先駆けとなったため、この仕掛けを「ヴァンパイア・トラップ」と呼ぶようになった。ポリドリの小説とノディエの劇により、欧州ではヴァンパイア・ムーブメントが押し寄せる。


 1847年「吸血鬼ドラキュラ」の作者であるブラム・ストーカーが生誕する。そして同年、イギリスのJ.M.ライマー(若しくはT.P.プレスト)が、ペニー・ドレッドフル(三流週刊誌のこと、一般名詞)において「吸血鬼ヴァーニー」を連載、ポリドリの吸血鬼のように人気作となる。ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」は、吸血鬼ヴァーニーの影響を明らかに受けたものであるとされている。


 10年後の1857年(文化11年)、日本で刊行されたオランダ語の本、葛拉黙兒私・著『蕃語象胥』において”vampyre”の文字が確認できた。これは日本においてヴァンパイアの文字が確認できる、恐らく最古の事例


 5年後の1862年(文久2年)『英和対訳袖珍辞書』にvampireの訳語として「蛭」と当てられている。現在判明している中ではこれが最古のvampireの翻訳例


 2年後の1864年(慶応2年)、同じ『英和対訳袖珍辞書』においてvampireの訳語が「蛭」から「妖鬼(小説の)」という訳に変化する。以前の記事で解説したように、ここでいう「小説」は「ノベル」のことを指しているのか、「寓話(民話)」のことを指しているのかは分からない。


 10年後の1872年(明治5年)、『英和字典』において「魔、血ヲ吸フ鬼」と、「吸血鬼」に近い訳語が出てくる。そして同年、フランスのシェリダン・レ・ファニュがレズビアン小説としても名高い「吸血鬼カーミラ」を刊行する。後にブラム・ストーカーがこれを読み、自分でも吸血鬼小説を書こうと思い立った結果できたのが「吸血鬼ドラキュラ」であることは、有名な話。


 1年後の1873年(明治6年)『英和字彙 : 附音插図』においてvampireの訳語として「吸血鬼」と当てられている。これがvampireを吸血鬼と翻訳した、現状最古の例。吸血鬼カーミラより1年後に、日本では「吸血鬼」という言葉が見られるようになった。後に吸血鬼のスタンダードとなるブラム・ストーカの「吸血鬼ドラキュラ」の刊行は1897年である。ドラキュラの刊行より24年前に、日本では吸血鬼という言葉が誕生していたことになる。


 1884年のロブシャイト著『英華字典』、これは英語と中国語の対訳辞書であるが、その辞書にはvampireの訳語として「吸血鬼」という中国語が見当たらない。よって現状では「吸血鬼」という漢語は、和製漢語である可能性が非常に大きい。


 1897年、ブラム・ストーカーが「吸血鬼ドラキュラ」を刊行。ドラキュラはそれまでの吸血鬼小説と民間伝承の吸血鬼の特徴も付け加えた、吸血鬼の一つの完成形となる。そしてこれ以後、ドラキュラは吸血鬼像のスタンダードとなる。今の日本では吸血鬼を表す一般名詞として「ドラキュラ」と誤用されるほどになる。

 同年、ストーカー家と隣人で友人関係にあった画家のフィリップ・バーン=ジョーンズ「吸血鬼」という絵を、ストーカーより数か月早く発表する。そしてフィリップの従兄弟であり、イギリス初のノーベル文学賞受賞者であるラドヤード・キップリングがその絵から着想を得て「吸血鬼」という詩を発表する。これは共にファム・ファタール:宿命の女をモチーフとした女吸血鬼の作品。1897年イギリスでは、一方ではスタンダートとなる吸血鬼が生まれ、もう一方ではエロティックで男の運命を弄ぶ、ファム・ファタールな女吸血鬼の作品が生まれた。そしてこれが後の日本のヴァンパイア移入史にも大きく影響してくる。


 1900年~1910年は多くの中国人留学生により、和製漢語が中国へ伝わることになる。「吸血鬼」という言葉も恐らくその一つであると考えられる。顔恵慶1908年『英華大辭典』にvampireの訳語として「吸血鬼」と出てくる。中国語において”vampire”を吸血鬼と訳した、恐らく最古の事例

 1909年、米国のポーター・エマソン・ブラウンが1897年のジョーンズ&キップリングの「吸血鬼」から戯曲と小説を作る。

 1911年、オックスフォード英語辞典(OED)に「vamp:妖婦」の見出し語が初めて掲載される。

 1912年、田口桜村 著『黒手殺人団 : 探偵小説』に「吸血魔物語」という章が出てくる。内容はどう見ても、実在した吸血鬼としても紹介されることの多い、ハンガリーの血の伯爵夫人・エリザベート・バートリの逸話を流用したもの。よってこの「吸血魔」とは「吸血鬼」の意味で使っている可能性が高い。

 1913年、アメリカで映画「ヴァンパイア」上映。作中の「ヴァンパイア・ダンス」がエロティックと評判で話題作となる。これにより米国映画界に吸血鬼ブームが押し寄せる。

 1914年芥川龍之介がテオフィル・ゴーティエ原作『死女の恋:クラリモンド』を翻訳して刊行する。底本は小泉八雲による英訳。この時龍之介は、"vampire"の訳語として「夜叉」と当てた。龍之介の時代には"vampire"を吸血鬼と翻訳する英和辞典は、既にかなりある。vampireの後、蠅の王として有名な「ベルゼブブ」はそのまま紹介していることから、日本人に分かり易くしたわけでもない。龍之介が「夜叉」とあてた理由は不明。
 だが明治の英学者にて高校時代の龍之介に英語を教えていた平井金三が、龍之介のクラリモンドよりも1日早く『三摩地:心身修養』という精神を説いた本を刊行する。平井はここでヴァンパイアを「吸血鬼」と当てて紹介していた。それどころか有名な吸血鬼事件史である、これまでは日夏耿之介が最初に紹介していたと考えられていた、1731年のアルノルト・パウル事件すら紹介していた。
 そして龍之介よりも数か月早く、明治の元祖冒険小説・SF作家である押川春浪が『怪風一陣:武侠小説』において吸血鬼を登場させていた。

 1915年、南方熊楠が『祖言について』で、ヴァンパイアを「吸血鬼」と当てて紹介していた。文芸評論家の東雅夫氏は、これと前年の芥川龍之介の『クラリモンド』の翻訳から、「吸血鬼」という訳語は南方熊楠が生み出したものであるという説を紹介しており、他の吸血鬼解説本でも紹介されるほど有力視されていた。ところがそれが覆ったことは、最初の記事で解説した通り。

 同年、アメリカでは1909年のブラウンの戯曲&小説から翻案した、セダ・バラ主演・映画『愚者ありき』が大ヒットする。エロティックで男を食い物にする女吸血鬼を見事に演じたセダ・バラは、1911年にオックスフォード英語辞典に掲載されたThe vampの名を授かることになり、以後セダ・バラと言えばヴァンプ:妖婦のイメージがついた。ハリウッド初のセックスシンボルとまで言われるほどになる。

 1918年『熟語本位英和中辭典』にvampireの訳語として「芝居の舞台ににわかに出入りするに用いる落とし戸」の意味が掲載された。これは明らかに、1920年の吸血鬼劇『島の花嫁』から生まれた「ヴァンパイア・トラップ」のことを指している。

 1919年、芥川龍之介と親交の深かった作家の谷崎潤一郎が、龍之介が翻訳したゴーティエの「死女の恋:クラリモンド」をベースとして、再度翻訳した。龍之介版をベースにしたとは一切明言はされていないが、龍之介版の明らかな誤植がそのままにされているのが散見されることから、まず間違いなく龍之介版をベースにしたと考えられている。
 クラリモンドの作中で"vampire"という単語が出てくるのは2か所ある。谷崎は一か所目は龍之介と同じく「夜叉」としているが、龍之介が翻訳しなかった2か所目の"vampire"は「吸血鬼」と当てている。理由は不明。

 1920年代、セダ・バラの通称vamp女優の概念が、新興キネマなどの映画会社を通して日本にもこの時期に伝わる。

 1921年、ハンガリーにおいてブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」をモチーフとした映画がハンガリーで作られるが、残念ながら現存しておらず詳細は不明。

 その1年後の1922年、同じくブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」から翻案した映画「吸血鬼ノスフェラトゥ」が上映される。「ブラム・ストーカーの吸血鬼ドラキュラ」をモチーフとした映画としては、現存している中では最古のもの。決して最古の吸血鬼映画ではない。ストーカー夫人から許可がでなかったのでドラキュラの名前を使用しなかっただけで、実態は吸血鬼ドラキュラもの。それでもストーカーの妻、フローレンスに著作権侵害で訴えられた作品である。ちなみに「吸血鬼は日光を浴びると灰になる」という設定を最初に組み込んだ作品。原作の吸血鬼ドラキュラは昼間でも平然と歩いている。民間伝承の吸血鬼も昼間で歩く報告が残されている。さらに余談だが、『吸血鬼は日光が弱点』という設定は、ブラム・ストーカーが生まれた年に連載が始まった1847年の「吸血鬼ヴァーニー」が最初。昼間は力が出ないので日陰に隠れるといった描写がされている。

 1925年、『英和辞典 : 発音引』でvampireの訳語として「妖婦、男を弄んで金を巻き上げる女」とある。妖婦の意味を紹介した、恐らく最初の事典。

 1928年、英国のモンタギュー・サマーズ師、吸血鬼を科学的に研究した初期研究本となる、「The Vampire: His Kith and Kin」を発表する。翌年1929年にもサマーズ師は、2冊目の吸血鬼研究本「The Vampire in Europe」を刊行する。

 1930年、『英語から生れた現代語の辭典』の「ヴァンパイア」の見出し語として「毒婦の意にも用ふ、あの女優はヴァンパイア役が十八番だ」とある。そして『モダン辞典』には「吸血魔の意味から妖婦、妖婦役」「ヴァンプと云ふ」とある。このあたりからこの時代には「ヴァンパイアとは女」というイメージが先行していた可能性が考えられる。
 同年、あの江戸川乱歩が小説『吸血鬼』を発表する。

 1931年、ベラ・ルゴシ主演・映画『魔人ドラキュラ』が日本でも上映される。参照ソースは失念してしまったが、この時日本ではそこまで話題にならなかったという。
 同年、日夏耿之介がモンタギュー・サマーズ師の2冊の吸血鬼研究本を抄訳した「吸血妖魅考」を刊行する。平井金三の「三摩地」を発見するまでは、この本が学術的な吸血鬼を、日本において最初に紹介した本だと思われていた。

 1932年、佐藤春夫が1819年のポリドリの小説「吸血鬼」の翻訳を刊行する。注釈に「ヴァンパイアという怪物は食血餓鬼を思い浮かべたが、通例に従って吸血鬼と訳す(要約)」とある。vampireの訳語として「妖鬼」「吸血魔」などもあったが、「吸血鬼」で定着したことが伺える。

 1933年、寺田寅彦が『コーヒー哲学序説』において「吸血鬼の粉黛」と、吸血鬼を女性の意味で用いていた

 1935年の『万国新語大辞典』に「ヴァンプとはヴァンパイアの略」とある。さらにヴァンプ女優の例として、新興キネマなどで活躍した原駒子鈴木澄子を挙げている。これは1920年代に新興キネマなどを通して伝来した、アメリカのヴァンプ女優・セダ・バラをもとにしたものだと考えられる。

 1936年1937年、児童文学作家の松谷みよ子の研究より、都市伝説『赤マント』がこの時期に確認できる。そしてその正体は「吸血鬼」であったとされる。本当に当時吸血鬼という噂があったのかは不明。だが文芸評論家の東雅夫氏の解説によると、1930年代は「吸血鬼」という言葉は当時の知識人で一種の流行語と化した観があると述べている。となるとこの時期に「赤マント」の正体が「吸血鬼」であるという噂があったことは信ぴょう性がある。もちろん、まだまだ裏付け調査は必要ではあるが。

 1939年、金田一耕助シリーズで有名な横溝正史、ストーカー作「吸血鬼ドラキュラ」より『髑髏検校』を翻案する。

 1956年、平井呈一が『吸血鬼ドラキュラ』の抄訳を刊行する。 

 1956年クリストファー・リー主演、映画『吸血鬼ドラキュラ』が上映。これは日本でも大ヒットした。リー演じるドラキュラは、現在おおよそ想像されるスタンダードな吸血鬼であった。「吸血鬼ハンターD」シリーズでおなじみ菊池秀行先生が、当時の衝撃を物語っていることから、かなりインパクトがあったことが伺える。

 1971年(1968年?)、平井呈一が『吸血鬼ドラキュラ』の完訳を創元推理文庫から刊行する。これは今でも発売されている。そのほかの完訳は2000年に刊行された新妻昭彦+丹治愛の完訳詳注版、2014年に発売された田内志文訳がある。完訳といいながら平井版は日本人には分かりづらい部分を省略しているので、本当の意味での完訳は新妻+丹治版が最初となる。現在入手が容易なのは、現在も新品が販売されている平井版と田内版である。



 以上が年代順による解説となる。個人的に興味を惹かれたことは、吸血鬼のスタンダードとなったブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」刊行よりも24年も前に、「吸血鬼」という和製漢語が既に出来上がっていたこと。「吸血鬼」という言葉がドラキュラ以前にも既に日本に伝わっていたことが非常に興味深い。それが今では「ドラキュラ」が「ヴァンパイア」の意味で誤用されるのだから、時の流れとは面白く感じる。

 ドラキュラよりも前の1872年のレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」以前にも、西欧の「ヴァンパイア」の存在は「妖鬼」として既に知られていた。しかもカーミラ刊行と同じ年に日本の『英和字典』ではvampireの訳語として「魔、血ヲ吸フ鬼」と、「吸血鬼」に近い訳語が生まれていたことも面白い。

 日本の吸血鬼移入の転換期は東雅夫氏も言う通り、1930年代ごろにあるように思われる。このあたりから一気に「ヴァンパイア」という存在が日本人にも広く知られ、「吸血鬼」という訳語も定着していった観がある。④戦前の日本で吸血鬼といえば『女吸血鬼』が主流だった?という記事でも解説したように、1930年代の辞典類に限ってみれば、戦前の日本人にはどうも「吸血鬼と言えば女」というイメージが先行していたのではと思われる節がある。日本において今想像される「スタンダードな吸血鬼」が広まるきっかけとなるのは、1956年のクリストファー・リー主演の「吸血鬼ドラキュラ」ではないかという気がする。この映画は日本でも大ヒットしたそうので、この映画から日本における吸血鬼像は大体固まったように思われる。

 となると気になるのは、戦前の日本における「吸血鬼観」だ。1930年代は辞典類だけ見れば「吸血鬼とは女」というイメージがあったように思われるが、同時に男吸血鬼の創作や翻訳も次々と刊行されている。これも前の④の記事で述べたように、映画や文学はもちろんのこと、戦前の軽演劇、芝居、それどころか新聞雑誌の知識欄、ラヂオの講座など、ありとあらゆる大衆文化を調査しなければならず、とても個人では調査できるものではない。もはや一大研究となってしまう。だが、もしなにかこのあたりの事情が分かる典拠をご存知なかたは、ぜひご教授願います。



 解説は以上となります。vampireの訳語として吸血鬼という言葉を当てたのは南方熊楠。それを烏山奏春氏がちょっと気になって調べてみたら、熊楠以前にもあったことが判明、南方熊楠造語説を唱えていた東雅夫先生自ら新発見であるとの太鼓判まで頂くことができました。
 そして奏春氏はさらに地道な調査をされて、vampireの訳語の更なる起源を追い求められて、それをまとめて公開されました。今回私の解説シリーズは、吸血鬼に関しては多少知識のある私が、補足を入れていっただけに過ぎません。ですがより理解は深まったと思います。
 今回の記事は烏山奏春氏の探求心があってこそできたものです。烏山奏春氏に敬意を表すとともに、快く情報提供してくださったことに関しまして、この場を借りまして厚くお礼を申し上げます。

 この解説シリーズでは、参考文献は都度表示していましたが、こちらの記事にて参考文献一覧を紹介していますので、よろしければご確認下さい。
 またニコニコ動画では、この記事の内容を先行して紹介しています。間違った解説をしていますが、それでもよろしければご覧ください。(この解説シリーズではその間違いは修正しています。また動画上でも私や奏春さんが訂正コメントしています)

 ここまで長い記事をご覧いただきまして本当にありがとうございました。動画の方では吸血鬼のあれこれを解説していますので、ご視聴いただければ幸いです。

【追記】
なんと今回の記事を元に卒業論文を作成した方がいらっしゃいました。その内容を教えていただくことができたのでぜひご覧になってみてください

日本における吸血鬼ヴィジュアルイメージはどのように定着していったのか:当ブロマガ記事を参考にした卒業論文が作られました



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この記事を先行して紹介した動画

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ノセール

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